第2回 「年下の男の子」


最初の飛躍は「年下の男の子」でしょう。作詞は恩人のひとり千家
和也氏。私は作曲と編曲を担当しました。
キャンディーズが始めてトップ10にチャートインした作品です。こ
の作品が出るまでのキャンディーズは、いま一つ伸びきれないでい
ました。
私も、前作で「なみだの季節」を作っていましたが、何か物足りな
いものを感じたものです。

制作スタッフはその頃、どこか保守的になっていました。出てくる
アイディアもパッとしなかったものです。
「年下の男の子」の時もそうです。私に伝えられた制作方針は、マ
イナーで青春時代の哀愁を表現する作品でした。当然私は面白くあ
りません。これではキャンディーズが輝きません。しかし、私はま
だ駆け出しの25才。大胆な提案が簡単に受け入れられるはずもあり
ません。
そこでは私は考えました。それは方針通りの作品を作って制作スタ
ッフに安心してもらい、B面として、当時としては大胆な作品を作曲
することです。
そうです、「年下の男の子」は初めB面用としてつくられました。
いまでこそ、Blue noteを多用したMelodyはあたりまえですが、歌謡
曲とよばれた時代に「年下の男の子」は冒険です。
この時もまた私は、制作スタッフに感謝したものです。
ソニーの中曽根皓二ディレクター、そして松崎も私の考えをわかっ
て応援してくれたからです。この時、最初に用意した「私だけの悲
しみ」がA面なっていたら・・・・。キャンディーズも私も、大き
く違う人生を歩くことになっていたかもしれません。

「年下の男の子」には別バージョンがあることを知っていますか?
実は、最初のバージョンは没になっているのです。理由は『これは
歌謡曲じゃない』。つまりカッコ良すぎたのです。それもそのはず
で、この幻の「年下の男の子」は、Drumsにポンタ村上、 Bassに岡
沢幸を起用して、全く日本とは思えない仕上がりになっていました。
特に今はもう大御所のポンタ村上。彼もまだ20代の前半でした。
「年下の男の子」が没になりそうになって松崎は考えました。日本
じゃないというなら日本すればいい。彼の結論は明解です。
私達は泣く泣く、スタジオミュージシャンを変えてレコーディング
を行うことにしました。「年下の男の子」が没になるよりはましだ
と考えたからです。このことは今でも残念ですし、ポンタには今で
も悪かったと思っています。もっとも後に六本木のグラブで逢った
時、ことの経緯は説明して私なりに謝りました。『これは歌謡曲じ
ゃない』 渡辺プロダクション社長渡辺晋氏の一言は強力でした。


さて、エピソードは続きます。ボーカルレコーディングは例によっ
て深夜まで続き、3人も疲れ切ってはいたものの無事に終了し、ラ
ン、スー、ミキを帰宅させてミックスダウンに入りました。オケサ
ウンドを固めてボーカルミックスに取り掛かったのが午前3時。私
達はどうしても気に入らない小節に気付いて立ち往生しました。締
め切りは明日。3人はいない。
ここでエンジニアの吉野金次が大胆にも言いました。「ランに来て
貰いましょう」。そうこの作品は、はじめてランをフューチャーし
た作品でもあります。そして吉野金次といえば、キャンディーズが
時代を超えたもうひとつの秘密兵器です。ランは快く引き返してき
ました。ここがまたキャンディーズ成功の分かれ道。ランがスタジ
オに着いたのが午前5時。ボーカルトラックの完成が午前6時。午
前中にはぶじにミックスダウンも終わって、その日の内にプレス工
場へ届けられたのです。


(つづく)